インターネットがなかった時代のライター本。黒田清著『体験的取材学 いい仕事をするための主観技術』

書いた人:中村慎太郎

今の時代を生きる我々にとって、記事を書く際に、インターネットの力を借りるのは当たり前だ。

「ちゃんと検索したか?」
「wikiくらい読んでおけ」
「ネットの反響を拾ってきなさい」

こんな指導をする上司もいるに違いない。僕が大学院をやめてWEBライターをはじめたときに指導されたのは、記事はいかにわからないようにパクるかという方法論であった。

All about やnanapiなどのノウハウサイトで見つけた情報を、コピペと判定されないレベルまでリライトするというのが仕事であった。ぼくはある種のガチ勢であったため、紙の資料を購入して執筆テーマに備えていたのだが、「お金を出して資料を買ったらおしまいだ」と言われたのを思い出す。

文字単価換算で0.07円の仕事であったからかもしれないが。10万字書いても7000円という恐ろしい仕事である。それにもう少しマシな単価の仕事もあわせて月20万円くらいまでは持って行っていたが、何のために書いているのかわからなくなったし、「WEBライターをしていては物書きとして生きていくことはできない」と考えて、さっさとやめることにした。

その後収入は非常に不安定にはなったものの「国内サッカーとサポーターの人生、あるいは地域との関わり合い」という自分の大テーマを見つけることができた。「字数と文字単価と時給」ばかりを考えて仕事をしていると、「字数と文字単価と時給」を考える人間にしかならない。

僕は、お金にはならなくても、人様の幸福に寄与できるテーマを選ぶべきだと考えた。今思うと酷い回り道を歩み続けていたと思うのだが、それはさておき、カンワキュウダイ。

この書籍を知ったのは……、何かの本を読んでいて、そこで紹介されていたと記憶しているのだが……。何で読んだのかはまったく思い出せない。しかし、この本は買うべきだと感じて、すぐにAmazonで注文した。

黒田清著『体験的取材学 いい仕事をするための主観技術』

買ってから気づいたのが、この本はインターネットが存在しないころの取材論であったということだ。

著者の黒田清氏は、1931年生まれ。満州事変があった年である。


1952年から読売新聞の記者をはじめ、2000年に没するまで活動を続けた。最後はガンに苦しみながらも、『ガンと上手につきあいなはれ』(徳間書店)という書籍を刊行している。死ぬ間際まで書き物をしているという僕の理想を体現した物書きだといえる。

さて、『体験的取材学』であるが、現代の取材論とはまったくもって話が違う。なぜならインターネットが存在しないからである。

インターネットを使って記事を書くのは大変で、今の時代はYahooコメントとTwitterだけを頼りに記事を書くということが横行している。かくいう弊社もSponichi Annexという、一昔前なら権威性も大きかったメディアにネガティブな特集をされてしまったのだが、取材は一切受けていない。

当事者のコメントを取らないのは何事かと思う次第なのだが、それよりも、Yahooコメントを根拠に記事を書いていることが驚きであった。しかも、そのコメントもまるで的外れである。

だから、Sponichi Annexに影響を与えようと思った場合には、Yahooコメントにおいてプロパガンダをするのが有効ということが言えてしまう。最も当該の記事以外ではどうかわからないが、そういったところにメディアの信頼性は表れるように思う。

真のジャーナリズムにおいては、事象を正確に把握して、記録していくことが求められる。なるだけ多くの当事者に話を聞くのは当たり前であるし、それ以上のものがあってしかるべきなのだ。

実際に当該の記事は、何らかの影響力を持つことはなく、5chにスレが立ち、何の記事かわからない、ちゃんと取材せよというような醒めたコメントがいくつかつき50レスもいかないうちにスレが終わってしまった。

当てが外れたというべきかもしれないが、恐らく、しっかりと取材すれば事象の真相にも迫れたと思うし、もっと数字も取れたのではないかと思う。実際に、スポーツ界隈としてはかなりクリティカルなスキャンダルが表に出ないままになっている。そのうちどこかで出そうとは思うが、時期をみる。

さておき、インターネット時代においては、多くのメディアがPV至上主義となり、衆愚主義となり、ゴシップ優先となってしまった。

大きなテーマではなく、芸能人のセクシャルなスキャンダルであったり、どこぞの会社が炎上したりという「メシウマニュース」であったりしたほうが数字が取れるのである。

しかし、数字は取れるかもしれないが、それはあくまでも瞬間的なものであるし、独自性をもつのが難しいため、ゴシップメディア同士の争いとなってしまう。そうなってしまったら、より苦境に陥っていくと、僕は考えている。

今の日本は、反教養主義とでもいうのだろうか。芸能、ゴシップのニュースが幅をきかせている。これほど芸能、ゴシップの話が好きな国民は日本人くらいだと聞いたことがある。

ゴシップ記事においては「メインカメラ」を大衆に設定する。つまり、大衆の目線でみて、苛立ちを感じるのであれば、炎上性のある良い記事である。大衆の目線でみて、感動するならば、それもまた良い記事である。

このやり方は、まさしくポピュリズムでありスノビズムである。一方で、Youtuberは、そのポップな出で立ちに反して、今、中途半端なメディアよりもはるかに信頼を集めているといえる。

どうしてこうなるかというと、やはり「主観」をもっていることが前提となっているからだろう。前述のSponichi Annexの記事は、ライター名もわからないし、Yahooコメントをしているのも誰だかわからない。最悪の場合自作自演である可能性すらある。そういったものが透けて見えるため、信頼性もない。

一方で、Youtuberに関していうと、自分の目線で見た事柄を、自分の頭で考えて、自分が批判されるリスクと共に語っている。従って、信頼が得られる。「メインカメラ」が自分についているのである。

『体験的取材学』に話を戻すと、著者の黒田氏は、ネットのない時代であったため、自分で足を動かして取材に行くことを大切にしている。ただし、それだけならば普通の取材である。

黒田氏は、記事を書くのが難しければ、自分の動きを表現しろという趣旨の発言をしている。調査の緻密さがあるのと同様に、自分がどういう思考プロセスをもって取材していったか、そのダイナミズムを記事に練り込むことを伝えている。

新聞記事にはダイナミズムなどないと思って育った世代としては衝撃であるし、実際に新聞はそういったメディアである。しかしながら、黒田氏は、「動き」を意識し、自分に「メインカメラ」が積まれていることを前提として取材をし、文章を書いていった。

ネット時代においても生き残るのはそういった文章であり、記事であるだろう。Sponichi Annexの記事はもう流れてなくなってしまった。

指定されたURLは存在していません、となっている。

1年も持たない記事を作って行くジャーナリズムなど存在しない。ジャーナルの本質は記録していくこと、知的な資産として未来へと残していくことだからだ。

Twitterの書き込みですら、10年単位で残っていることを考えると、半年足らずで消えてしまう記事を作って、その場の売上を立てることの貧しさは推して知るべきである。

取材ゼロで勝手なことを書かれて大変な迷惑を被ったので、少し文句を言ってやろうと思ったのだが、それもネットメディアの本質である。効率よく、大衆的な記事を量産していくことで広告費を稼ぐのである。

ただし、それは短期的な収益にしかならず、ロングテールどころかノーテイルである。

物書きにとって大切なことは、自分のテーマを持ち、しっかりと取材や調べ物をして綴っていくこと。蓄積していくことだ。

そのためには、自分に「メインカメラ」が積まれていること、自分の書いたものが未来へと繋がっていくことをしっかりと認識するべきだ。

黒田清さんが1986年に書いた本。僕が5歳のころ、つまり37年前に書いた本が、しっかりと伝わっているし、影響を与えてくれる。

もちろん、僕が本を読んだところで、黒田氏の生涯所得は変わらない。印税も入らない。しかし、黒田氏の人生に価値があったことについては、強く肯定することならできる。

ちなみに、渡辺恒雄氏との折り合いが悪く、読売新聞を追われているとのことなのだが、僕も同様に、渡辺恒雄氏の影響で巨人ファンから離脱している。

ネットがあまりにも便利であるため、ネットを使わないで取材することなどありえない時代である。しかし、今取り組んでいる『君がJリーグを認めるまで、僕は歩くのをやめない』でもやっているように、現地に足を運び、自分の頭で考えて、自分にカメラが積まれていることを前提として書いていくことには間違いなく価値がある。

手間はかかるし、売上効率も悪い。今の言葉でいうとタイパもコスパも悪い。しかし、それをするべきだ。なぜなら、それこそが物書きの仕事だからだ。

タクシードライバー目線で、夜の東京をドライブする動画。

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